夫の正しい躾方 17話

 
 ───恐ろしい程に静まり返る室内。


 1人はお色気むんむんなランジェリー姿。方や上半身裸でズボンの中央を膨らませている人間が、ベッドの上で向かい合いながらお行儀良く正座をしているのだ。
 それは一種の異様な光景でもあった。
「えー……と、藤咲?」
 まさか私の口から愛人さんの名前が出てくるとは思わなかったのか、動揺して視線が上下左右に動いているし、膝の上に置いてある拳がギュッと握られていた。
 私は少し顔色が悪くなった慧君を見詰めながら、口を開く。
「あのね、慧君。私、結構前から慧君が浮気してるの……知っていたんだよ?」
「……え」
「はは、本当にバレてないと思ってた? 残業で帰って来たはずの慧君の体から、うちでは使った事の無い薔薇の匂いがするシャンプーや石鹸の香りがしてきたり……寝言で『まほ』って言ってたりもしてたんだよ?」
「………………」
「でも、何も言えなかったの。私の何が悪かったのか、全然分からなかったから……」
 俯きそうになる顔を上げて、でもね、と続ける。
「でも、慧君に……体の良い家政婦って言われた事が、それが1番ショックだったの」
「俺、歩にそんな事言ってなんか───」
「うぅん、言ってたんだよ。……覚えてないかな? 慧君のお友達や後輩の方達がご飯を食べに来ていて、無くなったアルコールを私が買いに行ってた時に、皆に話てたんだけど」
「………………っぁ」
 慧君は訝しげに視線を彷徨わせていたが、ハタと何かを思い出したように声を上げ、そして苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「あ、れは……あの時は……」
「思い出した?」
「あ、あぁ……けど、あれは───」
「でもあの時にね? 私、決意したの!!」
「うぁ!? ……け、決意?」
 握り拳を作り、グッと前のめりになる私に、慧君が若干上半身を仰け反りながらゴクリと息を呑む。
 そんな慧君を尻目に、私は熱く語った。


「そう! 慧君の体を開発して、私から離れられなくすればいいんだって!!」


 私の言葉に一瞬ポカンとした顔をしていた慧君であったが、「だからあの時、俺の尻を掘ったのか!?」と口元を引き攣らせていた。
 勿論だと大きく頷けば、慧君はガックリと崩れ落ちる。
「いや……確かに、確かにアレで俺は落ちたようなものだけどさ……」
 ベッドの上で手を付いて項垂れている慧君に、私はそっと呟いた。
「だけどね? 本当は私も悪かったの」
「歩?」
「私、結婚してから自分の身なりのことなんか全然気にしないで、ただ慧君の帰りを、ご飯を作って待ってるだけだった。ただ、料理をして掃除をして洗濯をして……“しているだけ”の奥さんだったの」
 私は、綺麗に切り揃えられた髪の毛を触りながら、続きを話した。
「慧君の会社に、慧君の忘れ物を届けたあの日……私、藤咲さんに会ったの。そして、慧君に忘れ物を渡して帰ってる途中に自分の姿を見て、正直凹んだわ」
「歩……」
「藤咲さんは『女性』として、輝いて見えたの。確かに、仕事をしているから主婦よりも化粧とか服装に気を付けているのは分かるんだけど、それでも、私は何か1つでも『妻』だけじゃない、『女』として綺麗になる努力をして来たのかな……て考えされたわ」
 料理を一生懸命勉強して慧君が好きなご飯を作り、掃除洗濯をして、温かいお風呂の準備を毎日していたけど……毎日代わり映えのしない地味な服を着て、髪型も襟足で1本に結んでいるだけの、所帯やつれをした妻の姿をずっと見ていた後に───藤咲さんの様な綺麗になる為に努力をしている女性を見れば、普通であればどう思う?
 そりゃあ、ふらふらっとそちらの方へ飛んで行きたくなるかもしれない。

 一度、逆ならどうかと考えたことがある。

 生活するためのお金は稼いでくれるけど、家の中では、髪はボサボサ。ヒゲも剃らずに無精髭な顔でしわしわヨレヨレの部屋着を着回していて、お腹は暴飲暴食の為に妊娠でもしています? と言えるくらい出っ張っている夫を数年間見続けるとする。
 好きで結婚して、今でも愛情はあるかもしれないが……それは家族愛としてであって、『異性に対する愛情』と言うものは徐々に薄れていってしまうのでは無いか?
 そして、夫に『異性』としてドキドキするような恋愛感情を、抱けなくなってしまうだろうと思ってしまった。
 ……まぁ、全ての人がそうなってしまう事は無いんだろうけど。


 そんなこんなで、私が自分磨きを怠ったのも、慧君が浮気をしてしまう原因の1つだったのでは無いかと思った事を伝えた。
 私の言葉を聞いていた慧君は、少しい心地が悪そうな顔をしながら聞いていたが、「だから……ここ最近、髪を変えたり化粧をするようになったのか」と納得したようだ。
「……慧君」
「ん?」
「慧君は、今でも……藤咲さんと、会ったりしてるの?」
「会ってないよ! あいつとは全く───いや、仕事は別として……プライベートでは一切、会っても話してもいない。……信じれないかもしれないけどな」
 慧君はバッと顔を上げて焦ったようにそう言ってきたが、次にはシュンッと項垂れるように呟いた。
 直ぐに視線を逸らして顔を背ける慧君を見詰めながら、私は今まで考えて来たことをここで言おうと口を開いた。
「私ね、慧君の事が好き。これからも夫婦仲良く過ごして行きたいと思ってるよ? ……でも、やっぱり慧君が誰かと一緒に過ごしていたり、自分の家には無いシャンプーや石鹸の香りを纏いながら帰って来られるのは、もう嫌なの。だから、これ以上私以外の人と関係を続けていくようなら、私と……」
 私は、一旦言葉を切って、息を深く吸い込む。
 慧君は私の硬い声質に気付いたのか、ビクリと肩を震わせてから、のろのろと顔を私の方へと向けた。
 揺れる慧君の視線と、決意を固くした私の視線が合わさり───遂に私はこの言葉を彼へ伝えた。


「私と、離婚して下さい」


 緊張で、握る掌に汗が吹き出て来るが、口から出た言葉は案外震えずに相手に伝わったと思う。
 まさか離婚を切り出されるとは思ってもみなかったのだろう慧君は、「ちょっと待ってくれ!」と声を張り上げた。
「歩、離婚って……マジで言ってんのかよ」
「私は本気だよ、慧君」
 私の思いが冗談なんかじゃないという思いを込めて慧君の瞳を真剣に見詰めていると、何かを言おうと口を何度か開け閉めして、漸くポツリポツリと話しだした。
「俺……確かに藤咲と何度も会ってたよ。仕事をして疲れて帰ってくれば、歩が家の中を綺麗にして美味い飯を作っててくれてるっていうのは分かってたけど……同じ毎日を何年も繰り返すうちに、それが当たり前になってきてたんだ。なんかもう、『妻』っていうより『母さん』みたいな? それこそ……歩には悪いと思うけど、『体の良い家政婦』が住み込みで家にいますってな感じで今まで過ごしてきたんだ。───都合がいいのは十分承知してる。歩を今まで蔑ろにして、傷付けてきたのにも……本当に、ごめん。でも、俺、歩と別れたくない」
 慧君は一度言葉を区切り、深呼吸をし直してもう一度口を開く。


「藤咲とは、もう結構前から会ってないし、連絡も取ってない。今は、歩しか見てないし、好きじゃない」


「…………本当に?」
「あぁ、そうだよ。って言うか、今の俺は歩じゃなきゃ息子が勃たねぇーし。自分で摩ってみても気持ち良くもならん」
「えーっと。あー……うん?」
 一瞬、慧君の言ってる内容が良く分からずに聞き返してしまった。
「だから、俺の体は歩じゃなきゃ性的に興奮しないし、反応も一切しない───って言ってんの」
 慧君はそう言うと、四つん這いの格好で私の前にまで近寄って来くると、その長い腕の中にそっと私を包み込んだ。
 背中と後頭部に手が添えられ、慧君の匂いがする胸元へと顔を押し付けられる。
 慧君の心臓の音が、早鐘の様に鳴っていた。
「今まで本当にごめん、歩」
「………………」
「今までどれだけ歩の事を傷付けてきたんだろうな……本当なら、離婚されて慰謝料請求されたって文句は言えないのも分かってる」
 慧君の腕に更に力が入った。
「俺、これからも……歩と一緒にいたいんだ」
「うん」
「歩が作った美味い飯を食ったり、友達や後輩に歩を自慢したいし、2人で部屋で寛ぎながらゴロゴロしていたい」
「うん」
「それに、漸く歩の感じる所が分かってきたから、もっと気持ち良くなって欲しいし、開発していきたいし……エロい下着を着た歩に体を弄られるのも快感になって来たから、これから一緒にお互いの体の事を知っていければいいと思ってる」
「う───……ん?」
 今までいい話をしていたのに、何で最後はエロい話になるのか。
 頷きかけた首を傾げた時、私を抱き締めていた慧君がそっと離れた。
 そして。


「だから、どうか許して下さいっ!!」


 一歩下がったかと思えば、ベッドのシーツへと額をくっ付けるようにして土下座をしだした慧君に、私は一瞬言葉を失う。
 まさか、“あの”慧君が土下座。
 小さい頃から知っている慧君であるが、土下座なんかしている姿は初めて見た。
 私は戸惑いながら慧君の頭にそっと手を伸ばし、その柔らかな髪を撫でる。
 指が頭に触れた瞬間、慧君の肩がビクッと震えたのには苦笑した。
「慧君、顔を上げて?」
 ベッドのシーツに押し付けている慧君の頬に手を添えて、そっと顔を持ち上げる。
「さっきも言ったけど、慧君とはこれからも仲良く夫婦生活を送って行きたいの。だから、約束して? もう、絶対に浮気はしないって」
「あぁ、しないよ。絶対にしない。俺にはもう歩1人で十分だから」
「次は無いよ? 次やったら本当に離婚しますから」
「…………はい」
「じゃあ、今回だけ許してあげる」



 離婚という言葉に本気でビクツク慧君に苦笑しながら、私は慧君の浮気を許してあげたのであった。
 









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