「……うぅ……ん」
胸をふにふにと触られる感触で、目が覚める。
うっすらと目を開け、自分の手を胸元に持って行けば……。
そこには、大きな手が私の胸を包んでいた。
胸を包む手は、私の背にピッタリとくっつく様にして寝ている夫のものである。
私の胸を寝ながら触るのは、夫の精神安定剤みたいなものらしい。
スーッ、スーッ、と寝息を立てる夫は、無意識に胸を揉んでいた。
夫は、2つ年上の幼馴染みである。
まぁ、幼馴染みとは言っても、会ってもろくに会話をしたためしも無く、彼が高校の卒業と同時に東京に行ってからは、それ以来会った事も無かったのだが……。
───3年前、たまたま彼の実家に作り過ぎた煮物をおすそわけしに行ったら、久々に実家に帰って来ていた彼が出て来て「それ、お前が作ったの?」と鍋を見ながら聞いて来た。
そうだと頷けば、「へぇ、料理上手なんだな。……なぁ、俺と結婚しない?」と唐突に語る。
最初はただの社交辞令だと思った。
だって、隣りに住む『イケメンで頭が良く、運動神経抜群のお隣りのお兄さん』がそんな事を言えば、誰でもそう思うだろう。
しかし、彼───夫は本気だったらしく、東京に戻るまでの1週間、ずっと口説かれ続け……彼が東京に帰る1日前、ついに私は首を縦に振っていた。
そんな夫と結婚して、3年が経つが……。
「うぅ〜ん……ま、ほ……」
夫が寝言で見知らぬ女性の名前を呟いた。
一気に目が冴える。
まほ? と、口の中で呟きながら、首だけ後ろに向ける。
そこには、子供のような無防備な顔で眠る夫の顔があった。
「………………はぁっ」
私は溜め息をつくと、胸から手を外し、少し大きなダブルベッドから抜け出した。
───夫が浮気をしている。
寝室を出て、そのまま台所に直行する。
食器棚からコップを取り出して水を注ぎ、一気に飲み干した。
認めたくは無いが、ここ最近の夫の怪しい行動や先程の寝言等を聞くと───夫は浮気をしていると認めざるを得ない。
私は台所で暫くボーッとしていたのだが、頭を降って夫のお弁当作りに取り掛かることにした。
お弁当箱におかずを詰め込み、お弁当袋に箸と一緒に包んだ所で、寝癖をつけた夫が起きて来た。
「おはよう、慧君」
「……はよ」
くあぁぁっと欠伸をしながら朝食が並ぶテーブルに着いた夫───慧君が、「あ、そうだ。……あゆ」と私を呼んだ。
「なに?」
「言い忘れてたんだけど、今日の夜に、会社の同僚と後輩がうちで飯を食ってく事になってるから」
「えっ、今日!?」
急な話しに驚きながらも、何人位の人を呼んだのと聞けば、5人位だと言われた。
「ほら、前にも来た事がある田中と古嶋と新谷だよ。アイツらが、あゆが作った飯を食たいって煩くてさ……。その他の2人は、初めて来る奴だな」
「うん、分かった。それじゃあ、今日の夕食は豪華にするから、期待しててね!」
「あぁ、悪いな」
慧君は朝食を食べてスーツに着替えると、颯爽と出社して行った。
私は慧君がいなくなり、1人になった広い部屋でワイドショーを見ながら朝食を取り、洗濯物や掃除を一通りしてしまうと、今日の夕食の準備をすべく、食材を買い出しに近くのスーパーに買い物に出掛けて行った。
夕食を作っていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。
テーブルの上にお皿と箸を並べ、最後にシーザーサラダを置いた所で慧君達が帰って来た。
「お帰りなさい」
「ただいま」
慧君に声を掛けると、その後ろからゾロゾロと夫の同僚や後輩達が入って来る。
「歩(あゆむ)さん、お久し振りです」
「あ、古嶋さん、お久し振りですね。今日はゆっくりしていって下さいね」
「ありがとう」
「さっ、どうぞお入り下さい」
皆を家の中に招入れ、彼らが椅子に座った所を見てから、それぞれの前に冷えたビールを置いていく。
「うわぁ〜。冬堂先輩の奥さん、料理上手なんすね!」
「まぁな」
後輩が私の作った料理を見ながら目を輝かせ、羨ましい〜と言っていた。
私はその事で気分を良くし、「おかわり沢山あるので、一杯食べて下さいね」と言ったのであった。
食べ始めて2時間も経つと、皆いい感じに酔っていた。
「あゆ、酒持ってきて」
「はぁーい、……あっ、もう無くなってたんだ」
冷蔵庫の中を見ると、ビールがもう無くなっていた。
「ごめんなさい、もう無くなってるから、近くのスーパーで買って来るね」
「おぉ、分かった」
「歩さん1人じゃ大変だろ? 俺も付いて行くよ」
1人、腰を上げようとした古嶋さんに「いぇ、1人で大丈夫ですよ」と手を振り、財布を手に持ち家を出た。
「うぅ〜っ。やっぱり、古嶋さんに付いて来てもらえば良かった……」
家の前でビール缶が沢山入ったケースをドサリと置きながら、私は「はぁー、疲れた〜」と腰を叩いた。
それから玄関のドアを開け、ケースを家の中に入れてから、騒がしい居間の方へ歩いて行く。
誰かにあの重いケースを持って来て貰おうと思ったのだ。
居間へと続くドアの取っ手に手を掛けた瞬間───中から聞こえて来た話し声に、動きが止まった。
「しっかし、冬堂先輩の奥さんって……地味、ですよねぇ」
「あぁ、俺も見た瞬間、余りにも想像と違い過ぎて、拍子抜けしました」
「何だよお前ら、一体どんなのを想像してたんだよ」
「え〜? そりゃあ、冬堂先輩なら、すんげー美人な奥様なんだろうなぁ〜とか、年下ならちょっとロリっぽい感じみたいな?」
「そうそう! 会社ではあんなに美人な人達に囲まれてんだから、奥さんはさぞかし麗しい人なんだろうと思ってましたよ!」
取っ手を掴んでいた手を、ソッと外す。
回りからどう見られるかなんて、予想は付いていた。でも……ここまでショックを受けるとは気付きもしなかった。
廊下で俯く私をよそに、話は続く。
「そう言えば、慧はどういった経緯で歩さんと結婚したんだ?」
「あ、それは俺も知りたい」
「ん? ……料理を作るのが上手そうなのと、他の男の手垢が付いてなさそうなのと……あとは、いつでも俺がヤらせてくれって言えばヤらせてくれそうだったから」
「は? 先輩は恋愛結婚じゃなかったんですか?」
「あん? あいつとは恋愛なんぞ、した事もないぞ? 久々に会って、1週間後には結婚したからな」
「うわぁ〜、すげースピード婚!」
だんだん、泣きたくなってきた。
私を好きだと、愛してるって言ったのは……嘘なの?
グスッと鼻を啜った時、
「じゃあ、慧にとって自分の奥さんって何なのさ?」と、田中さんが慧君に聞く声が聞こえた。
私は、ハッと顔を上げて、慧君の次に発する言葉を息を呑んで待つ。
しかし、聞こえて来た言葉は───。
「ん〜……体のいい家政婦みたいなもん?」
自分の足下が、音を立てて崩れたような気がした。
───家政婦。
『妻』とさえ、言ってくれないなんて……。
「この3年間は一体……」
それ以降の事は、何を話していたのか、あまり記憶には残っていない。
深夜の1時を過ぎ、皆が帰った後の後片付けをし終わってから寝室に行けば、風呂上がりの慧君が、バスタオルを腰に巻いたままの格好でベッドに倒れていた。
私は、風邪を引いたら大変だと声を掛けようとして───ふと、口を噤む。
彼が言った『体のいい家政婦』が耳から離れない。
「慧君がそう思ってるなら……それなら、その考えを改めさせればいいのよ」
私はクッと口角を上げると、クローゼットの奥に置いてある段ボールを引き摺りだし、その中から、彼が去年の忘年会で披露した手錠外しの『手錠』を抜き取った。
それから、黒のアイマスクも手に持つ。
「……さてと、浮気夫の躾でもしましょうか」
私は慧君が寝ているベッドに乗り上げると、仰向けで寝ているお腹の上に跨がり、彼の両手をクロスさせてから手錠を嵌めた。